こんにちは。

リアルタイムではヨーロッパをとっくの昔に去り、アフリカ縦断を開始して既に2か月くらい経ったところです。

ネット環境が異常に悪いエチオピアをようやく抜けたので、ブログを再開できるようになりました。

4か月くらいタイムラグが生じてるんで当時のことを頑張って思い出してみます。

 

<世界一周30か国目>

ボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)

通貨:兌換マルク

旧ユーゴスラヴィア諸国。

ボスニア人、セルビア人、クロアチア人と、旧ユーゴ圏の中ではもっとも民族が複雑に入り混じっていた国。

 

<現在地はここ>

サラエボ(Sarajevo)

気温:最高30〜33℃ 最低25〜25℃(2017年8月)

 

 

サラエボ旧市街を歩く

サラエボといえばサラエボ事件、そしてユーゴスラヴィア紛争のイメージですが、なかなか雰囲気のある歴史都市です。

まずは宿やお店が集まっている東の旧市街エリアを散策してみましょう。

 

歴史ある街並みを東西に川が流れています。

その昔、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件の現場もこの辺り。

 

旧市街エリアはお土産物屋や飲食店がたくさんあってツーリストで賑わってました。

サラエボは治安悪そうなイメージがありましたが、そんなことはなく、このエリアに関していえば楽しく賑やかな雰囲気です。

 

少し路地に入るとそこは職人街。

 

可愛らしい食器がたくさん売られていて、お店の中では職人さんがそれをこしらえているのを見ることもできちゃいます。

クオリティも高そうで短期旅行だったらお土産に買って帰りたいと思いました。

 

ボスニア(ボシュニャク)人は基本ムスリムです。

ヨーロッパの街並みなのに、アザーンが聞こえてきて街中のモスクを覗くと、こんな光景が目に入りました。

不思議な感じですね。

 

エターナルフレイムというずっと燃えてる火系スポットです。

元はオリンピックの聖火らしいんですが、何か平和を願う意味を込めてつくったものだとか。

いろいろ調べてみたものの、詳細はあんまりよく分からなかったです。

 

サラエボ・トンネルへの行き方

で、僕がサラエボで気になっていて行きたいと思っていた場所が、トンネル博物館。

ここは、ボスニア紛争当時、セルビア人勢力によって包囲されたボスニア人が、物資運搬等のために掘ったトンネルの一部が残されている場所だそう。

場所がやや分かりづらかった、というか市内中心部から結構離れているので公共交通機関を使った行き方をこの記事で記録しておきます。

 

サラエボ市内の図。

トンネルは南西の空港があるエリアにありますが、サラエボに滞在する場合、たいてい東の旧市街エリアに宿をとると思います。

その場合、まずは街を東西に走っているトラムに乗り、西の端っこにある終点まで行きます。

 

トラム料金: 1.8兌換マルク(約121円)

 

降りるとすぐに大きめのバスターミナルが現れます。

 

ここで32番のバスに乗ります。

 

バス料金: 1.6兌換マルク(約108円)

 

前払い制。

 

空港周辺の拡大図。(maps.me)

バスはしばらく住宅地の中を走り、折り返すような広場のところ(一番右のピンのところ)まで行きます。

ここが終点。

バスのドライバーも観光客がここで降りるのを知っているので教えてくれると思います。

 

バス停付近にはこんな看板もありました。

表示に沿って歩いていきます。

 

住宅街の中を1km近く歩きます。

 

ここがトンネルの入口。

普通の民家みたいですね。

実際、トンネルの出口がここにつくられていたこともあり、ここの家主さんが博物館を管理しているそうです。

 

入場料: 10兌換マルク(約674円)

 

西洋人観光客はガイドを依頼している人が多かったですが、個人でも入れます。

 

 

 

戦争を今に伝えるトンネル

 

資料館の敷地はこじんまりとしていて、1時間もかからずに見て回れる広さ。

 

 

ボスニア紛争の様子や、トンネルがどのように使用されていたか等が分かる展示をはじめ、

当時撮影された、人々や物資がトンネルを通過していく映像も上映されていました。

 

こちらが残っているトンネルの一部。

全長20m弱くらい。

当時は800mくらいあったそうです。

どれほど狭くて低い、圧迫感のある通路を人々が使用していたのか、体験することができます。

 

サラエボのボスニア人がセルビア人勢力に包囲されていたときの図。

 

戦争の惨禍を物語る写真の展示。

子供の頃、よくニュースの映像で見た記憶があります。

 

小さなお土産屋もありました。

銃弾型のキーホルダーやボールペン。

欧米系の博物館だとこういうグッズを置いていることが多い気がします。

負の遺産だけどちょっとジョークも入れてくる。

 

敷地の奥には埋められた地雷がそのまま残っているスペースもありました。

 

 

この博物館は、ボスニア紛争の著名人にも注目されていて、モーガン・フリーマンやオーランド・ブルームが訪れた際の写真も展示されていました。

 

最初に書いたとおり、ボスニア・ヘルツェゴビナは、主に3つの民族が入り乱れた地域。

紛争中は、各民族による陣取り合戦と化し、20万以上の死者と200万以上の難民が発生。

憎しみが憎しみを生み、ジェノサイドと民族浄化が行われ、第二次世界大戦後における欧州最悪の紛争と呼ばれました。

 

でももともとは、お互いそれなりに仲良く生活していたり、異なる民族間で結婚していた人も多かったそうです。

そういう人達からすると、ある日突然家族と切り離されたり、隣人と戦わなければいけなくなっったはず。

政治意識の高い大人や過激派以外の人にとっては、理解しがたい悲劇でしかなかったはずです。